○荒井の仁輪加 播磨路の各神社の秋祭りには豪華絢爛な御輿屋根の屋台、弓反り形の屋根の屋台が登場、勇壮な練り合わせで観衆を魅了する。 荒井神社では化粧屋台のほかに、当今では珍しい仁輪加太鼓が秋祭りに欠かせないものとなっている。 仁輪加とは茶番狂言、俄狂言の略で素人が街頭や座敷で行った即興寸劇。のちには寄席などで興行されるようになった。 江戸時代初め、荒井村でも仁輪加、地歌、三味線などを取り入れた独自の芸能、仁輪加太鼓が作りあげられた。 当時の荒井村は、唯一の産業である塩田で塩の量産に成功。 村は繁栄を極め、年に一度の秋祭りには、種々の演目で寸劇し、語り、酒を酌み交わし芸人に三味線を弾かせ、女たちは踊り、造り物の太鼓を村内巡回させ、村中が酔い楽しんだ。 荒井神社に保存されている江戸時代の太鼓箱(嘉永二年)や神事渡御の絵馬の中に仁輪加太鼓の一部が画かれているのを見てもその歴史がうかがえる。 仁輪加太鼓は荒井だけでなく加古川、洗川の三角州上に位置した小松原、高砂、古新でも古くから登場していた。高砂は既に跡絶え、古新では形態は変わったものの子供による寸劇で仁輪加を継承している。 荒井神社には仁輪加保存会がある。毎年演目を決めて作詩される。 平成三十年度は上杉謙信である。仁輪加太鼓は舞子、乗子、担ぎ手が舞台と造物の太鼓台にわかれ寸劇を行う。三味線による中歌、地歌、差歌をはさむ上方芸能の一つとして全国から高い評価をうけている。 戦前は数台で演目や造物を競ったものであった。現在は荒井神社青年会による一台だけではあるが平成二十二年には高砂市より民俗文化財の指定もうけ四百年の伝統を継承しており、後後に伝えてゆきたいと思っている。 ○仁輪加のはじまりについて 一、十六世紀後半 秀吉の側近の曽呂利新左衛門などの御伽衆、御咄衆、仁輪加衆がとんちを利かせた笑い話や仁輪加劇を伝えたとも云われている。 二、一六〇三年 出雲の阿国が京都の四条でのかぶき踊りをしたのがはじまりだとも云われている。 |