播州仁輪加太鼓
播州仁輪加太鼓(ばんしゅうにわかだいこ)は秋の実りを寿ぎ、秋祭りに欠くことのできない氏子の歓喜の表現であります。
由来は江戸初期とも中期とも言われ、嘉永二年(一八四九)の年号が入った太鼓の箱が最古の資料として残っています。
仁輪加とは「にわかに仕組んだ劇」という意味で、毎年異なる表題、それに伴う造りもの、舞子、乗子、担ぎ手の地歌、三味線の伴奏に寸劇を演じつつ、氏宮を発して氏地内各町を披露して廻ります。正に荒井の里の詩歌であり、荒井神社秋祭りにおける郷土芸能であります。
戦前は、荒井地区には東所、中所、西所の3地区と小松原を合わせ、4地区が各々若衆屋台と子供屋台、計8台を有しており、それぞれに趣向を凝らして担ぎ出されていました。各地区は祭日の前日まで表題は全くの秘密裡に準備し、秋祭り当日に初めて披露して互いに芸を競い合い、実に勇壮優雅な郷土芸能であり、一巻の絵巻でありました。
戦後まもなく、諸般の事情により何時しか各地区とも屋台も収納庫も消えてしまう運命となりましたが、郷土高砂市が市制20周年を迎えた昭和49年(1974)に氏神の渡御神事と荒井青年会の若人によって神輿が復活され、その翌年には仁輪加太鼓が郷土芸能として復活しました。
以来、毎年欠くることなく荒井神社秋祭りの神賑神事として今日に至っております。
荒井の仁輪加
播磨路の各神社の秋祭りには豪華絢爛な御輿屋根の屋台、弓反り形の屋根の屋台が登場、勇壮な練り合わせで観衆を魅了する。
荒井神社では化粧屋台のほかに、当今では珍しい仁輪加太鼓が秋祭りに欠かせないものとなっている。
仁輪加とは茶番狂言、俄狂言の略で素人が街頭や座敷で行った即興寸劇。のちには寄席などで興行されるようになった。
もとは京都の島原で行われ、江戸吉原に移り明治以降には大阪俄など、さまざまな喜劇劇団が生まれ、地方では博多俄が有名である。
江戸時代初め、荒井村でも仁輪加、地歌、三味線などを取り入れた独自の芸能、仁輪加太鼓が作りあげられた。
当時の荒井村は、唯一の産業である塩田で塩の量産に成功。
江戸においても荒井塩は良質なりと評価され、全国一の販売量を誇っていた。
塩俵の基準値として荒井俵が採用された時期でもある。
村は繁栄を極め、年に一度の秋祭りには、種々の演目で寸劇し、語り、酒を酌み交わし芸人に三味線を弾かせ、女たちは踊り、造り物の太鼓を村内巡回させ、村中が酔い楽しんだ。
荒井神社に保存されている江戸時代の太鼓箱(嘉永二年)や神事渡御の絵馬の中に仁輪加太鼓の一部が画かれているのを見てもその歴史がうかがえる。
仁輪加太鼓は荒井だけでなく加古川、洗川の三角州上に位置した小松原、高砂、古新でも古くから登場していた。高砂は既に跡絶え、古新では形態は変わったものの子供による寸劇で仁輪加を継承している。
荒井神社には仁輪加保存会がある。毎年演目を決めて作詩される。
荒井塩田、刃傷松の廊下、高杉晋作などの仁輪加太鼓が造られてきた。
仁輪加太鼓は舞子、乗子、担ぎ手が舞台と造物の太鼓台にわかれ寸劇を行う。三味線による中歌、地歌、差歌をはさむ上方芸能の一つとして全国から高い評価をうけている。
戦前は数台で演目や造物を競ったものであった。現在は荒井神社青年会による一台だけではあるが平成二十二年には高砂市より民俗文化財の指定もうけ四百年の伝統を継承しており、後後に伝えてゆきたいと思っている。
仁輪加のはじまりについて
- 十六世紀後半
秀吉の側近の曽呂利新左衛門などの御伽衆、御咄衆、仁輪加衆がとんちを利かせた笑い話や仁輪加劇を伝えたとも云われている。 - 一六〇三年
出雲の阿国が京都の四条でのかぶき踊りをしたのがはじまりだとも云われている。
編集 荒井神社青年会 仁輪加保存会